歴史

歴史
バウムクーヘンの始まり
日本のバウムクーヘンのルーツは、中国の青島に居たドイツ兵の中にいた人たちによって伝えられました。当時青島はドイツの租借地で街の並みは中国離れしていたようです。
第一世界大戦では日本は連合国側で、英国と共にドイツと戦争になりました。この戦闘ではドイツ人4700人が捕虜になりその後日本に移送されました。
1918年(大正7年)第一世界大戦が終了しましたが、そのうち170人程が日本に残留することを希望したそうです。そのなかにパン・菓子・ソーセージなどの職人がいて、後に神戸でユーハイムの基礎を作ったカールユーハイム、ジャーマンベーカリーを創業したウイルヘルムミュラー、ソーセージなどの食肉加工をしていたローマイヤーなど、他にもヨーロッパの酪農の技術やいろいろなものがそこから広がっていきました。
銀座の明治屋ではカールユーハイムがカフェヨーロッパの責任者をしていました。彼の作るバウムクーヘン(現在のバウムクーヘンとはちがい窯の上火を使い薄い生地を何層も繰り返し層を重ねて焼く、ピラミッドケーキとも言う)は高価にもかかわらず、とても評判が良かったようです。
大正12年関東大震災が発生します、震災後カールユーハイムは神戸に移り住み後にユーハイムを創業します。ユーハイムが去ったあとカフェヨーロッパをウイルヘルムミュラーが引き継ぎましたが契約終了後、明治屋から店を買い取りウイルヘルムミュラーはジャーマンベーカリーを創業します。
ジャーマンベーカリーは美味しいコーヒーと他にないミートパイやピラミッドケーキで繁盛店となり規模を広げていきます。銀座店 麹町工場店 横浜弁天通り店の3店になったそうです。
その後時代は第2次世界大戦へとすすみます、彼らドイツ人は日独伊3国同盟の関係で、国内では今までと変わらない生活を続けていました。食糧事情が厳しくなりやがて戦火で東京 横浜の店も焼け一時山中湖の別荘に戦火を逃れ疎開をしたそうです。
戦争終了後GHQによりドイツ人は戦犯として財産の接収の処分がありました。昭和24年(1949年)処分がとかれました。その後ジャーマンベーカリーの店舗は銀座 有楽町 田園調布 横浜元町と発展していきました。
昭和30年頃私が小学校5年生位のとき、父に人を介してジャーマンベーカリーの社長ウイルヘルムミュラー氏からバウムクーヘンオーブンを作って欲しいと依頼がありました。そのころ父は新宿 市ヶ谷でパンを焼く食パン型やクッキー焼く天板など製菓製パン器具制作業を営んでいました。
初期のバウムクーヘンオーブンは窯の中に耐火煉瓦を積み、他の所で松の木を燃やし煙が出なく炭のようになった炭片を耐火煉瓦の上に並べ、その上で木の芯棒に生地を付け回転しながらやいていました。芯棒を回すのに職人さん一人、生地を付ける職人さん一人の二人で一本のバウムクーヘンを焼いていました。このオーブンが東京での丸い形のバウムクーヘンの始まりです。
その頃からジャーマンさんからの提案や父の改良工夫により、人が手で回転させていたものをモーターに、松の炭からガスの燃焼変に代わっていきました。時々父がジャーマンさんの工場に行くと、お土産にバウムクーヘンの端っこの切り落としを頂いてきました。思い出すとそれまで食べたことのない比べるものもない本当に高級なお菓子でした。今でもそれを超える味に出会ったことがないような気がします。思い出の中の印象は特別に昇華されるものかもしれませんが。
私がジャーマンさんの麻布工場に仕事で伺うようになった頃は、父の作ったバウムクーヘンオーブンが2台納入されていて、鈴木さんと山崎さんが何時も忙しく焼いていました。最盛期のジャーマンさんには400人位の従業員さんがいたそうです。
やがて時代は進みバウムクーヘンオーブンにも生産性を求められる時代がおとずれます。手で生地を掛ける1・2本焼きから、自動で生地が付いていく4・6・12本焼きオーブンと生産性の良いバウムクーヘンオーブンが誕生しました。当初父の会社の他に自動のバウムクーヘンオーブンを製造する会社がほとんどなく不二家・山崎パン・ロイヤルホスト・などの日本の洋菓子の先駆者さん達も父の作ったバウムクーヘンオーブン使用していました。
父の会社で営業や納品 試運転で北は紋別 名寄から南は鹿児島 宮崎まで45年間バウムクーヘンに関係する仕事をさせていただきました。その間も自分でもバウムクーヘンを焼いてみたいという夢を持っていました。
そして東北の大震災がきました。いろいろ人生について考えることがあり、これからの人生を北海道中富良野で畑仕事とバウムクーヘン造り、基本配合はジャーマンベーカリーさんに教えて頂いた卵を別立ての配合、1本焼き手掛け。私が最初に食べたジャーマンベーカリーさんの味に、恥ずかしくない味をめざして私もバウムクーヘンを焼いていきます。
長谷川 明男